視界の前方数メートルの暗闇に、板塀がある……。ぼんやりとそれを眺めていて、ふとそれが天井であることに気付いた。ハッとして首を左右に傾けてみる。オレの体は、夜魔の国を思い出させる白い服に包まれており、畳の上に敷かれた夜具の上に丁寧に寝かされているようだった。部屋の中には他に誰もいない。
ゆっくりと布団に肘をついて体を起こすと、ひどく重いかんじはするものの、気を失う前までの、死を意識させる体のだるさや痛みは無くなっていた。
知世ちゃんか……。
彼女は一体、どれくらいの力を持っているのだろう。ほとんど魔力を使い果たしてしまったオレには、その力で黒鋼を助けることの出来る彼女が、ひどく羨ましく感じられた。
――助ける?
そうだ、黒鋼はどうしただろう。あんなにひどい怪我で……
思わず立ち上がろうとした時、襖の向こうでバタバタと数人の足音がした。
「早く、まだ湯の用意は……」
「姫が立ち入るなと言っておられますので」
「薬はどうした、このままじゃ助からないぞ」
胸の動悸が一気に早くなった。彼らは口々にオレの不安を掻き立てるようなことを言いあい、しばらくするとその足音も遠ざかっていった。
助からない? 黒鋼のことか? 僅かに体が震えた。
オレはすうっと襖をひいて、部屋の外を覗いた。長く続く板張りの廊下。人影がなく、しんとしている。遠くの一室から灯りが漏れ、その部屋の前に見張りのように二、三人の男女が座っている影が見えた。
オレはゆっくりと廊下に身を滑らせ、静かにその方へと歩を進めた。とてもじゃないが、布団になど寝ておれない心境だった。歩き出すと、まだ体がフラフラとしているのを自覚する。天地が回るのを壁に手をついて抑えながら、ただ灯りの方向を目指した。
見張りのうちの一人の女性が、オレの姿に気付く。黒鋼に似た空気を纏っている。この人も忍者なのだろうか。
「ファイ様、ですね」
オレは僅かに頷く。彼女は静かな声でオレに話しかけた。
「寝ておられなくて、大丈夫ですか」
闇に静かに吸い込まれるような、優しい声だった。
「……大丈夫です」
彼女はオレの返事ににっこりと微笑むと、体をずらして自分の隣を少し空けてくれた。ここに座れ、という意味だろう。
「こんな場所で恐縮ですが、中には姫以外誰も入れないのです」
彼女はそう言った。口には出さなかったが、「少しでも彼の近くにいたいのなら、ここにいてください」と言われているみたいだった。オレは礼を言って、廊下の空いたスペース、彼女のとなりに座り込む。
部屋の中からは、物音ひとつ聞こえてこなかった。結界を張っているのかもしれない。静かな廊下に、部屋からの柔らかい灯りが漏れているだけだった。
彼は……黒鋼は、どうしているだろう。苦しんでいないだろうか、呻いていないだろうか。代われるものなら代わってやりたかった。
頼むから、頑張って生きてくれ……。そう思ってから、苦笑する。この言葉こそ、彼が常にオレに言わんとしていたことだ。そして、オレが生きることに背を向ける理由は、彼がことごとく切って捨てた。その度にこうして彼が傷ついていくのなら、オレはもう、生きることに目を向けるしか選択肢がないのだ。
まったく、彼という人は……。
ひんやりとした白塗りの壁に背をあずけて、闇の中でとりとめのないことを考える。そのうち、まだ本調子でないオレの体は、オレの意識までをも闇の中へと引きずっていった。
「……ファイさん」
オレを呼ぶ声で、はっと我に返る。辺りを見回すと、目の前の二人の女性、知世姫と先ほどの女忍者以外はすでに引き払ってしまったようだった。
オレを見下ろす、知世姫の優しい目。彼女はオレにこう言った。
「中にお入りになって大丈夫ですわ。明日には、目を覚ますと思います。いろいろ、ご心配かけましたね」
「……いえ。ありがとうございました」
ほっとすると同時に、いつも黒鋼を近く遠く見護っている彼女の存在が、まぶしいようなかんじがした。まだあどけなさの残る少女。でも、彼にとっては絶対の主人なのだ。
姫と女忍者は、軽く一礼して静かに廊下を歩き去った。姫の後姿からは、明らかに疲労が漂っている。あんな怪我を治すなんて、一体何を……。オレは目を細めてその背中を見送ると、ゆっくりと立ち上がった。
スルリと襖をひいて、薄暗い室内に足を踏み入れる。目の前の光景に、心臓がドキリと跳ねた。
君は、僅かに引き開けられた障子の間から差し込む月明かりに照らされて、真っ白い浴衣に身を包み寝具に横たわっていた。月光を反射して透き通るような肌があまりにきれいで、本当に生きているのか不安になった。君のまわりにうっすらと、何か護られているような気配を感じる。目に見えないカプセルみたいなもの。知世姫の力かもしれない。
オレは君の傍らに腰を下ろした。白い君の頬に手を伸ばして触れてみた。ひんやりとして、人形みたいだ。夢の中にいるみたいな心地だった。耳を澄ますと、小さく君の寝息が聞こえて、かろうじて生をつなぎとめたことが確認できた。
君の寝顔を眺めながら、時間の止まったような錯覚を覚えた。奇妙なデジャヴ感に襲われる。なんだか、ここはまったく、夜魔の国みたいだな。君の浴衣の胸元からのぞく、白い包帯を除けば。
あのときは確か、オレの言葉が通じなくて。ストレスをためるオレを、君はいつもカバーしてくれた。戦闘の最中でさえ、オレの位置を常に確認している君に気持ちが高揚した。明け方近く、疲れ果てて布団に入り、先に寝息をたてる君を、オレはよくこうやって月明かりの下で眺めていたっけ。忍者という職業柄か、阪神共和国からずっと臨戦態勢で眠る君を見ていたけど、ふとオレと二人でいるときだけは気を許しているのに気付いて嬉しかったんだ。
オレはゆっくりと彼の頭に手をやって、その髪を梳いた。何度も、何度も。いつもは怖い顔をして眉間に皺を寄せている君が、今はなんだか子供のような平和な顔をして眠っている。開けられた障子の隙間から柔らかく吹き込んできた夜風に、君の前髪がふわりとたなびいた。
大儀そうな顔をしながらも、実は誰よりもみんなを気にかけているその優しさ。危険をかえりみないその強さ。オレを見て胡散臭そうに細められる赤い瞳と、まっすぐに射抜いてくるその視線が怖かった。どんなに反発しても、君はついてくる。そしてオレは、いつもこの腕に守られて……。
額に滑らせていた手を、恐る恐る君の左側に移動させた。浴衣を着ていると、さも普段どおりに見える。袖の上に手をかけた。ゆっくりとそのまま、そこにあるはずの腕を握ってみる。
カサ、と衣擦れの音。ただ、それだけ。
掴めるはずの君の腕は、もうない。先ほどまでオレを引っ張って球体から出そうと必死だった君の腕。君がその腕で、鮮やかに刀を振り回すのを見るのが好きだった。その美しさに、いつも見惚れていた。オレをかばい、護り、そして今はもうない、君の左腕……。
パタパタと小さく音を立てて、君の浴衣にオレの涙が零れ落ちた。一度流れ出した涙は、止める術も無い。声を押し殺して、泣いた。
こんな優しさは、いらない。君が傷つくことがどれだけオレを苦しめているか、君は知らない。平気で自分を犠牲にする君に、腹が立った。明日彼の目が覚めたら、思い切り殴ってやろうと思った。
傷つき疲れて眠りについている君を見ていると、言いようのない苦しい想いが腹の底から湧き上がってくるようだった。
ぼんやりと涙でかすんだ目で、君の寝顔を見下ろす。意外に長い睫や形のいい鼻が、月明かりに紺色の影を落としている。
引き寄せられるように。オレは安らかに眠る君のその顎を捕らえると、ゆっくりと、深く口づけた。
君のいない世界なんて、あと数百年生きたとしても、オレには何の価値も無い。頼むから、オレのために危険を冒さないでくれ。そう、伝えたかった。もしオレにまだ少しでも魔力が残っているのなら、君に触れたここから、体内に流れ込んで怪我がよくなるといいのに。
君の眉が僅かに寄って、それからまたすぐに力が抜けた。
オレは唇を離して小さく息をつき、涙を拭った。気を落ち着けるために、障子をもう少し開け放して、外の景色に目を遣った。
月明かりの下、優しく、静かに、夜は更けていく。耳に届くは、君の寝息と、虫の鳴く声のみ。真夜中でも、月光の下に揺れる草原は緑だった。日本国の景色は美しかった。君の愛する国。長い人生の中でも、こんなに穏やかで切ない夜は初めてだった。
オレは再びとりとめのない思考に身を投じる。
近づきすぎてしまった君。取り返しのつかなくなる前に、これ以上近づくのはやめよう、そう思ったはずだったのに。君は突き放された途端、オレの核心に踏み込んだ。
もう、これ以上突き放すフリをすることに、何の意味もない。君の生き方は本当に、まっすぐすぎて笑ってしまう。
明日、君の目が覚めたら……。久しぶりに黒様と呼んでみよう。君はどんな顔をするだろうか。
そんな思いつきに少し楽しい気分になって、オレは君を振り返った。
悲しいことの多すぎるこの世界に、ほんの少し訪れた優しい夜。
犠牲は大きかったけれど、まだ君の隣にいられることに感謝して、今だけはこの風に身をまかせた。
(了)
気を失っている間に、唇くらい奪われているといい(笑)
このあと、本誌167話に続く。という妄想でした……。
お付き合いくださりありがとうございました(^-^,)