星の下で想う
風の優しい夜だった。オレとモコナは、並んで草原に座っている。夜の闇の中でサラサラと風にそよぐ草の音は耳に心地よく、かと言ってその音さえ聞こえなければ、オレはさながら夜の大海原に浮かんでいるような錯覚さえ覚えた。
「気持ちいいねえ」
のんびりと夜空を見上げて、モコナに声をかける。ゴロンとそのまま仰向けに寝転んでみると、満天の星が降ってきそうだった。視界の中に、夏の大三角と呼ばれるデネブ、ベガ、アルタイルを発見する。デネブとこの星の距離は1800光年。ベガは40光年。そしてアルタイルは16光年の距離。つまり、オレとモコナは今、1800年前、40年前、16年前の星の輝きを同時に目の当たりにしているわけだ。もちろん、星はほかにもたくさんあるけれど。
ぼんやりと、サクラちゃんと小狼くんのいるクロウ国のことを考える。サクラちゃんの羽根を回収した彼らは、昨日、ここ日本国を発った。今頃、祖国に戻って笑顔で手をとりあっているだろう。いや、今頃という表現はおかしいのかもしれない。オレたちの旅は、常に次元を移動するものだったから。次元移動……それは、時間も空間も異にする世界を移動することだ。だから。……そこまで考えて、オレはまたぼんやりと星を眺める。今、目の前に映る星々の持つ時間のどれかに、彼らがいるのだろうか。そう考えると、切ない中にもなんだか愉快な気分になった。
「ねえファイ、本当にいいの?」
そんなオレの思考をよそに、モコナが不安そうにオレの顔を覗き込んだ。
「いいって……もちろんだよ。オレから頼んだんじゃないか。なんでそんなこと聞くの?」
「だって……モコナ、なんでファイがここを離れたいのか、よく分からない」
モコナは困ったようにそう呟く。ゆっくりと耳を垂れて、顔を伏せてしまう。オレは「よっ」と小さく掛け声をかけて身を起こした。そうしてモコナをひょいと抱き上げて、自分の膝にのせた。
「モコナ……ごめんよ。モコナは黒様と一緒にいたいんだよね。なのに、オレのわがままで」
でも、君がいないと次元移動できないんだ。
「違うよ。モコナだって黒鋼とは一緒にいたいけど、ファイとだって一緒にいたいの。モコナが悲しいのは、ファイがそんな顔をしていることなの」
……そんな顔? オレは今、一体どんな顔をしているというのだろう。
「ファイは、もう逃げなくてもいいんでしょ。だったら、ここにいようよ。黒鋼だって、それがいいっていうよ。一緒に、日本国にいたらいいよ」
モコナの口調は、半分懇願に近かった。できることなら、そうしたい。でも。
オレは緩やかに首を横に振った。ざあっと音をたてて吹き付けた風に、前髪が揺れた。
オレたちはちょうど数時間前、荷物をまとめて城を抜け出した。出てくる直前に、黒様の枕元に手紙を置いた。「今までありがとう、旅を続けます」と、ただそれだけの手紙。彼の寝顔をしっかりと目に焼き付けて、オレは彼の部屋を後にした。明日の朝、手紙を発見した彼はどんな顔をするだろう。
……怖いのだ。このまま、幸せに慣れていくことが。身を任せた幸せが、いつか消えていくことが。大切なものを傍に置いておくことが。そして、彼もまた同じ恐怖を知っている。過去に経験して、これからの人生でまたあの痛みに出会うことを恐れている。だから、オレたちは一緒にいないほうがいいのだ。
目を閉じて、昨日の黒様を思い出す。膝の上のモコナの頭をゆっくりと撫でながら問いかけた。
「昨日の黒様の表情、モコナは覚えているかい?」
「昨日の、黒鋼? あっ……うん。覚えてる……」
モコナは少し体を揺らしてそう言うと、黙り込んだ。
昨日、サクラちゃんと小狼くんがこの国を去るとき。サクラちゃんはオレと握手しながら、笑顔のまま泣いていた。小狼くんは気丈にその隣でサクラちゃんを支えていた。オレも、モコナも、知世姫も、みんな揃ってお別れを言い合っていたけど、黒様は一言も自分から言葉を発さず、最後に小狼くんが「黒鋼さんも元気で」と言ったときにようやく、にやりといつもの笑顔をつくって「お前もな」と言っただけだった。
二人が姿を消してから、部屋に戻ろうと振り返ると、黒様はもういなくなっていた。「どこに行ったのかな」とオレは、モコナと二人で城の中を歩き回った。体を動かしているほうが、サクラちゃんと小狼くんがいなくなった寂しさを紛らすことができて好都合だった。ひんやりとした回廊をうろうろしていると、「あれ」とモコナが小さく叫ぶ。その方角にひょいと顔を向けると、城の屋根の上に寝転んだ黒様が見えた。
「あー、あんなところにいたんだねえ」
オレはモコナと一緒に上階へ走り、そうっと屋根の上にあがると、頭のほうから黒様の顔を覗き込んだ。声をかけようと思っていたのに、その声を思わず飲み込んだ。
彼は、目を閉じていた。眠っているのかもしれないし、そうでないのかもしれない。ただ、オレたちが近づいても目を開けなかっただけのことだ。でもオレは確かに、彼が泣いていると感じた。涙も見えないし、嗚咽が聞こえたわけでもない。いつもの仏頂面のまま目を閉じているだけなのに、言いようのない悲しみを消化するのに、彼が必死になっているのが分かった。少し力の入った眉間。僅かに開かれた口の奥でしっかりと食いしばられている奥歯。思わずぎゅうっと抱きしめてあげたい衝動に駆られる自分をなだめつつ、オレは小声でモコナに言う。
「お昼寝中だったねえ」
人一倍感情を読み取る術を知っているモコナが、こんな黒様に気づかないわけがない。でもモコナは弱々しく笑って「本当だね」と言った。そしてオレたちは、ゆっくりとその場を離れた。
オレは手元の草を玩びながら、星空の下、ひっそりと呟く。
「……もう、あんな顔をさせたくないんだ」
モコナは悲しそうに俺の顔を見上げて、口を開いた。「だったら、なんで……」
その瞬間。
「あんな顔ってどんな顔だ」
背後から聞こえた声に体がすくむ。「うわっ」と叫んだのは、オレだったかモコナだったか。
恐る恐る振り返ると、その声の主は仏頂面のまま、仁王立ちでオレを見下ろしていた。彼の手には、オレの置いてきた手紙がしっかりと握り締められている。
不機嫌を隠さない静かな声で、彼は言う。
「旅を続けるって……どういう意味だ」
オレは返事をせず、黙って黒様の次の言葉を待つ。ところが、次の言葉はオレをひどく驚かせるものだった。
「オレも……オレも、行く」
僅かに目を見開いたオレに気づいて、黒様は付け足すように言う。
「もっといろいろな世界を、見てみたいからな」
なんだか、子供みたいだった。オレは可笑しくなった。ゆっくりと目を伏せる。
「だめだよ……君が一緒だと、旅ができない」
「どういう意味だ?」
オレは、何も言わなかった。意味なんて、文字通りだ。君が一緒だと旅ができないんだ。だって、旅を続けるための対価が『君と一緒のこの先の人生』なんだから。次元の魔女は、それがオレにとってどれだけ大切なものか知っている。だから、旅を続ける対価として認めてくれたんだ。
いつまでも答えようとしないオレに胡散臭そうに目を細め、黒様は再び口を開く。
「じゃあ、質問を変える。あんな顔ってどんな顔だ」
……また、さっきの質問か。振り出しに戻った。オレは一瞬取り繕おうとして、それから諦めて溜息をついた。仕方ない。
「……さよならを我慢する顔、だよ」
黒様はゆっくりと眉をひそめた。
「今のことか?」
「違うよ。どんなに大切に思っていたって、誰との間にも、別れは来るんだ。今ならまだ、間に合う。今ならまだ、オレとサヨナラしても、君は泣いたりしない」
その言葉に、可笑しそうに君は鼻を鳴らす。
「泣くって……なんの話だ。オレは泣いたりしない。お前とは違うからな」
それからゆっくりとオレに背中を向けた。
「出て行きたいときに出て行けばいい。羽根は集まったし、お前の悩みも解消されたんだ。オレたちはもう、自由だからな。……でも、こんな不意打ちで逃げ出すようなマネはすんな。行くならオレの前で『今までお世話になりました』って口上の一つも述べて頭を垂れろ。笑顔で送り出してやる」
彼の言葉に、オレは早くも泣きそうになっていた。
『今までお世話になりました。もう二度と会えないけど、元気で』彼の前でそう言って頭を垂れたら、本当に、彼は笑ってオレを送り出してくれるのだろうか。もう本当に、二度と会うことはないけど、元気で……。
遠ざかる黒様の背中を見ながら、オレはポツリとモコナに言う。
「今日のところは、延期するしかなさそうだねえ」
モコナはオレの袖にしがみついて「ファイ……」と不安そうに呟いた。
部屋に戻ろうと、深夜の真っ暗い廊下を足音を忍ばせて歩く。
「……ファイさん」
突然ひとつの部屋の襖がするりと開いて、中から知世姫が顔を出した。
「あっ、すみません。起こしちゃいましたか?」
彼女はゆっくりと首を横に振り、それからオレに手招きをした。
「ちょっと、お入りになって」
オレはモコナと顔を見合わせると「……はい」と首をかしげた。
部屋に足を踏み入れてみると、そこは小さな客間だった。どうやら、オレがここの前の廊下を通ることを知っていて、待ち伏せしていたようだ。
オレとモコナが座布団に腰を下ろすと、彼女は小さな湯飲みでお茶を出してくれた。
「……黒鋼に聞きましたわ。日本国は肌にあいませんか?」
オレは慌てて首を横に振る。
「ち……違うんです。この国は大好きです。旅に出たい理由はもっと……」
言いかけて口をつぐむ。彼女の顔を見ると、優しい目が先を促していた。なんだかカウンセラーみたいだ。オレは彼女にならなんでも相談できるような気分になって、ゆっくりと口を開いた。
「サクラちゃんと小狼くんと別れるときの彼の顔を見ていたら、なんだか苦しくなってしまって。もうあんな、悲しみをこらえる彼の顔は見たくないんです。そりゃあ今別れるのは辛いけど、ここで二人で暮らすのに慣れてしまったらそれこそ別れるときに耐えられなくなるから」
ふう、と溜息を落とすオレに、知世姫は訝しそうに言った。
「悲しみを、こらえる?」
「……表現がよくないですか?」
オレは彼女の言葉の意味が分からず、そう返事をした。その途端、知世姫の表情がふっと和らぐ。そして可笑しそうに口許を押さえた。
「ファイさんはご存知ないから、そんなふうにおっしゃるのですわ」
「ご存知ないって……何をですか?」
「あんなに動揺した黒鋼を見たのは初めてです。あの余裕の無さときたら、愛妻に逃げられたダメ夫のようでしたわ。深夜にガラリと女性の部屋の襖を開け放して飛び込んできたと思ったら、開口一番『あいつがいない!』でしょ。部屋の中を右往左往、目は泳いでいるし、鬱陶しいったらありゃしない。悲しみをこらえるどころか、今にも泣きそうな顔で、悲しみ全開といったかんじでしたよ」
「……えっ……」
オレは呆気にとられてしまう。
「あんまりおろおろしているから、私が『落ち着きなさい!』って叱り飛ばしたほどです」
「……そ……それって黒様の話ですよね?」
「そうですわ」
彼女はにっこり笑ってそう言った。オレは自分の顔がどんどん赤く染まっていくのを感じた。
「モ……モコナ。オレ……」
「うん、ファイ。モコナ、もう少し日本国でゆっくりしたい」
「そうだね。うん……そうだね」
オレはモコナの意見に同意するフリをしながら、落ち着かなくなった。それに気づいた知世ちゃんが、思い出したように言う。
「さっき帰りに黒鋼がここに立ち寄ったので、お茶をいれてあげましたの。部屋に持って帰って飲んでいると思うから、まだ起きているのではないかしら」
その言葉に我慢できなくなったオレは、ばっと立ち上がった。
「オ……オレも、もう寝ようかな。あの、お茶……ごちそうさまでした。モコナ、オレ、先に部屋に戻るよ」
自分の部屋に直行しないのがバレバレなことも気にせず、オレは脱兎のごとくその場を退散した。今頃部屋で、ひとり落ち込んでいるかもしれない黒様に謝るために。
「世話のやける人たち」
ファイが部屋を出て行った後、知世姫はくすりと笑い、障子を開け放して夜空を見上げる。1800年前、40年前、16年前……様々な時代の星の輝きがいっせいに彼女の目に飛び込んだ。知世姫は呟く。
(どこにいたって、同じことですわ。バラバラの次元で生きていたって、振りかえれば心の中では、思い出はこの星々みたいに一望できてしまう。心に焼きついた人は、そんなに簡単に色褪せたりしないのです。別れが早いからといって悲しみが少ないわけではないのに……)
そうして腕の中の、今にも眠りに落ちそうなモコナを見る。
「そんなことにも気づかないなんて、二人とも青春ですわね」
モコナは知世姫を見上げて、安心しきった夢うつつの表情で返事をする。
「そうなの……ファイと黒鋼は青春なの……」
ふふ、と笑みを漏らして、モコナの頭を優しく撫でてやってから、知世姫は静かに障子を閉めた。
−了−