夏のおわりに
「今年はもうないと思ってたよ」
カランコロンと気持ちの良い下駄の音をアスファルトに響かせながら、白い浴衣に紺の帯を締めた四月一日はご機嫌な面持ちでひまわりを振り返った。
雨で延期が繰り返されていた縁日と花火大会が、夏休みも終わってしまった九月初旬の今、一気に開催されようとしているのだ。
「本当だね。今年もまたみんなで、花火見られるね。よかったあ」
檸檬色の浴衣をスマートに着こなして、キラキラした笑顔を振りまくひまわりに、四月一日の目尻がだらしなく下がる。
かーわいいー! 興奮した四月一日が爪先でくるくる回っておかしな踊りを披露した途端、頭一つぶん背の高い、紺の甚平を着た隣の男にドシンとぶつかった。ぶつかったのは四月一日のほうなのに、なぜか怒鳴り散らすのも四月一日のほう。
「いてーなっ、そんなとこにつっ立ってんじゃねえ! 」
「邪魔なのはオマエだ」
「なんだとコノヤロー!」
相手の胸倉に掴みかかってぐるんぐるんと腕を振り回す四月一日。まったく相手にしない百目鬼。
毎度のやりとりに、ひまわりはクスクスと笑って毎度の言葉をかけた。
「二人とも、ほんとに仲いいね」
そもそも、花火が見たいと騒ぎまくっていたのは侑子さんだったのに。当の本人は今朝になって仕事が入ったとかでキャンセル。モコナを連れて家を出て行くときの侑子さんの不機嫌さときたらなかった。誰だか知らないが、仕事を押し付けてきた相手を恨むだの呪うだの物騒な言葉で罵り続け、ノシノシと廊下を軋ませながら鼻息荒く出て行った。 もちろん、四月一日を振り返って「お土産忘れたらどうなるか分かってるんでしょうね」というジャイアンのような殺し文句も忘れずに。
そんなわけで、三人は並んで縁日の夜店の間を歩いていた。花火が始まるにはまだ三十分くらいある。ひまわりは片手に金魚(百目鬼がすくってやった)、もう片手に林檎飴。百目鬼は片手に焼きそば、もう片手にビール。そして四月一日は……ひまわりの荷物を両手に抱えて歩くのだった。
「四月一日くん、荷物持たせちゃってゴメンネ」
「いいんだよう。ひまわりちゃんは思う存分、お祭り楽しんでね!」
デレデレと締まりのない顔の四月一日を見遣って、百目鬼は「アホか」と呟いた。
散々遊んでようやく花火会場までたどり着いたとき、遠くのほうで浴衣姿の女子が数人こちらに向かって大声で手をふっているのに気付いた。
「ひまわりーーっ」
「わあ、みんなも来てたんだあ! 四月一日くん、百目鬼くん、私ちょっと行ってくるね。すぐに戻ってくるから」
ああっ、ひまわりちゃん……。
四月一日の必死の願いも空しく、ひまわりはキラキラしたオーラを発散しながら遠く彼方に消えてゆくのであった……。
「あーあーあー、オマエさえいなきゃなあ。ひまわりちゃんと二人っきりの夏のメモリーだったのに……」
隣でどっかりと敷物に腰を下ろして缶ビールをあおっている百目鬼をにらみつけながら、花火の開始時刻まで手持ち無沙汰な四月一日は、ブツブツと不満をぶちまける。
「なんだ。荷物持ちのメモリーか?」
「うるせえ!」
(やれやれ、九軒がいなくなったとたんにまた喧嘩腰か……)
百面相の四月一日を見ながら、百目鬼は肩をすくめた。
延々といつもの愚痴を叫び続けて喉が痛くなった四月一日は、ようやく静かになった。ガラガラする喉を押さえてふうっと溜息をつく。ひまわりちゃん……。知らず知らずに四月一日は声に出して呟いた。
「まあ落ち着け。オマエも飲め」
いつの間に買い足していたのか、百目鬼は徐にスーパーのビニル袋を取り出して、四月一日に缶ビールを差し出した。思わず「未成年だろう」とツッコミを入れたくなった四月一日だが、誰かに聞かれたら余計立場が悪くなるのでやめておく。喉の痛い四月一日はおとなしく、プシュ、とプルタブを開けた。体力を温存するために愚痴は頭の中だけにしようと決めた。
ビールで喉を潤しながら、四月一日は隣の百目鬼をぼんやりと見つめて考える。
分かってはいるんだ。こいつがいなかったら、オレはこんな場所には来られない。夏と秋の境目。アヤカシがその数を増す時間帯。こんな人混みにあって、それでも普通にしていられるのは、百目鬼が隣にいるからだ。でも、でも……。やっぱり納得いかねえ。なんで毎回こいつと一緒に……一緒……に……。
「どうした、もう酔いがまわったのか」
ふと意識を戻すと、百目鬼がこちらを見下ろしていた。何の表情も浮かべていないくせに、それでもなぜか、自分を心配しているのが分かった。
オレのまわりに集まるアヤカシを唯一祓える人間。
常にオレより優位にいる人間……。
どうやってもオレが勝てない人間……。
四月一日は不意に苦しい気分に襲われる。酔いがまわっているのは自分でも分かっていた。なぜか気を抜いたら泣きそうだと思った。
「オ……オレ、喉渇いたから何か買ってく……」
突然四月一日は立ち上った。このままここにいるわけには行かなかった。理由がなんであれ、こいつの前でだけは泣きたくない……!
「じゃあオレも一緒に……」
そのときの百目鬼の言葉の意味が、「オレも喉が渇いたから一緒に行く」だったのか、「お前だけではアヤカシに襲われるから一緒に行く」、だったのかは分からない。ただ単純に四月一日は後者だと思い込み、そのとたんに頭に血が上って感情が爆発した。
「いい気になるな、一人で平気だっ!」
畜生、畜生。どこでもいいから、こいつの前にはいたくない。四月一日は今来た縁日へと引き返すように必死で走り出した。さっきまで爽やかな音を立ててお祭り気分を高揚させてくれた四月一日の下駄は、もう今は走りにくくて邪魔なだけだった。
つい三十分前までは九軒の隣で笑っていたのに。オレと二人になったと思えば急に怒鳴りだして、今度は突然泣きそうになる。意味が分からない……。百目鬼は眉間に皺を寄せて考える。
さっき突然立ち上った四月一日の膝は、僅かに震えているように見えた。喉が渇いたなんて嘘だ。たった今、ビールを飲んだばかりじゃないか。百目鬼の頭の中では、ただ、最後に四月一日が発した「いい気になるな」という台詞だけが何度もリピートしていた。――いい気に、なるな。そう言われる心当たりはひとつしかない。考えたことがないわけじゃなかった。もしオレが四月一日だったら、オレの立場にある人間をどう思うだろう、と。
やがて、百目鬼はすっと立ち上がり、四月一日の消えたほうに足を向けた。
神社の境内にしゃがみこんで息を整えていると、背後に伸びる黒い影。……アヤカシではない、清々しい気。やっぱり、来たか。オレの行くところなんて、いつでもこいつにはすぐに分かってしまうんだ。
四月一日は深い溜息をついて立ち上がると、ゆっくりと振り返った。もうその目に涙はなかった。ただ、まっすぐに百目鬼をにらみつける。オレより常に優位にある、こいつを。しかし、次の瞬間百目鬼の口から発せられた言葉は、四月一日の予想をはるかに超えるものだった。
「……悪かった」
……え?
耳を疑った。百目鬼が謝っている現状も、また何に対して謝っているのかも、理解できずにいた。放心している四月一日に、百目鬼はもう一度はっきりと繰り返す。
「アヤカシを祓えるのが、オマエの嫌いなオレで、悪かったと言っているんだ」
これではまるで「生まれてきてゴメンナサイ」と謝る子供だ。四月一日は心臓を鷲づかみにされたように、そこから動けなかった。
ポン、ポン。空気を叩くような軽い音が境内に充満する。風に乗った火薬の匂いがたちこめ、紺色の空には白い煙がゆっくりと広がっていった。
楽しみにしていた打ち上げ花火は既に始まっていた。百目鬼の涼しげな目許が、花火の色を受けてうっすらと赤や緑に染まった。淡い光の中で見る百目鬼の顔に、四月一日はこの鉄面皮がいささか動揺していることに気付く。一見いつもの無表情だが、少し強張った口許、緊張して僅かに見開かれている目、そんなものは普段、一度だってお目にかかったことがない。
四月一日は考える。
アヤカシを祓えるのがオレで悪かった……そんなことを言わせているオレは何様だろう。滅茶苦茶を言っているのは、オレのほうだ。こいつがいい気になんてなっているわけがない。そんなこと、分かってる。だってこいつは、何もしないでオレを助けているわけじゃないんだ。危険を冒して自分が傷ついても、いつだってオレの隣から離れようとしない。本当にイライラしているのは、百目鬼にではなく、何もできない自分自身に対してだ。
「……オレも……悪かった。勢いで言っただけだ、あんなこと思ってない」
百目鬼が自ら先に折れたせいで、気付けば四月一日もすんなり謝罪を口にしていた。普段なかなか素直にならない四月一日があっさり謝ったので、百目鬼は驚いて四月一日を凝視する。
そんなに驚くなんて、少しオレに対して失礼じゃないだろうか……と四月一日は思った。
ポポン、と軽い音が数回続いて、それから大きなポーンという音と共に、百目鬼の肩越しの夜空に、大輪の花が咲いた。百目鬼の表情は陰になっていたが、すうっと目を細めて少し笑ったように見えた。奴の口が「よかった」と音にならない安堵の声を漏らした。
四月一日は思わず息を飲んだ。 男相手に変だと自分にツッコミを入れつつ、本当にきれいだと思ったのだ。花火じゃなくて、花火を背負った百目鬼が。
「行くぞ、九軒が待ってる」
ふと正気に戻れば、次の瞬間には百目鬼はいつもの仏頂面に戻っているわけだけど。ぐいと掴まれた手首はなんとなく振り切れず……。人混みを突き進む百目鬼におとなしく片手を預けたまま、四月一日はこの顔の火照りをごまかすべく、花火にも負けない大音量で悪態をつき続けるのだった。
−了−