unbridled desire

「おい、ちょっと待て」
 小狼くんを追って部屋を出ようとした瞬間、背後から低い静かな声で呼びとめられて、凍りついた。
 しまった、しくじった……。
「あ、えっと、小狼くん待って……」
 空になった御膳を持って自分の前の廊下をスタスタと歩いていく小狼くんに声をかけるが、聞こえているはずの彼は振り返ることなく遠ざかっていく。もしかすると彼もグルか……。
 オレは観念して振り返り、にっこりと微笑んで聞いた。
「なあに、黒様」
「襖を閉めて、そこに座れ」
「なんでー? 襖なんか閉めなくても、話できるでしょ」
 オレの切り返しには耳も貸さず、黒様は同じトーンでもう一度繰り返す。
「襖を閉めて、そこに座れ」
 仕方なくオレは、溜息を落とすと、彼の言うとおりにした。


 ここは黒様の部屋。床に臥せって自室で一人で食事をとっている彼のために、今晩は彼の部屋にみんなで御膳を持ち込んで夕飯にしよう、と小狼くんが提案したのだ。
 黒様だって初めはうるさいから来なくていいとか言っていたくせに、いざ晩飯時にみんなで押しかけると、追い返すことはしなかった。
「和食、おいしいねー」
「そうだねー」
 モコナの言葉に相槌を返すも、実際のところ、オレには味がよく分からなかった。
 この体質になってからずっとそうだ。体のエネルギーにならないものを口にいれても、おいしくもなんともない。ただ、みんなに付き合って、眼の前にあるものを少し口に押し込むだけ。
 しかも、最近本当の食事をとっていないオレは、たかだか、その「食べる真似ごと」程度にも吐き気を催した。
 誰にも気取られないようさりげなく度々口元を押さえてうつむくオレの横顔に、食事の間中ずっと、痛いほどに黒様の視線を感じた。
 勘のよい彼にばれないように、なんてどだい無理な話だ。だからせめて、彼と二人きりにならないようにしようと心を決めたところだったのに、食事の終わった途端にコレだ。


 オレが彼の前に腰をおろすのを待たず、彼は手早く懐から小刀を出して口にくわえ、その刃先に右腕を近づけた。
「ちょっ……」
 止める間もなく、彼はくわえた小刀であっさりと自分の右腕を切りつけた。みるみるうちにスウッと彼の腕に浮かびあがる一本の赤い線。傷は浅いとはいえ、その様はセレスで彼が左腕を落としたときの光景をまざまざと思い出させ、オレは先程とは比べものにならないほどの吐き気に口元を覆った。
「うっ……」
 崩れるように座り込むオレの耳に、黒様の落ち着いた声が飛び込んでくる。
「大丈夫か」
「な……っ、い……いらないからね」
 オレはやっとの思いでそう口にした。ゆっくりと顔をあげれば、間近に黒様の真剣な顔。
「阿呆。ひどい顔色で何言ってる。晩飯の最中だって吐き気をこらえるのに必死だっただろうが。餌のオレを避けてどうする」
 オレは顔を歪ませて視線を逸らした。その瞬間、強引に彼の温かい腕がオレの口元に押し当てられた。
 続けてぽつりと一言。
「みんな、心配している」
 ……やっぱり。さっきオレが呼び止めても小狼くんが振り返らなかったのは、この計画に加担していたからか。
 悔しがる間もなく、口元に押し当てられた腕から、オレは赤い色の味と匂いに魅了されていく。体がにわかに熱を帯びて、快楽を求め始める。どす黒い感情のうねりに飲み込まれそうになって首を振る。
 畳に転がった小刀。オレは空ろな目でそれを見遣った。
 君はいつも自分で自分に刃をあてる。刀を使えば必要以上に大きな傷がついてしまうというのに、オレが自分から君に歯をたてたりしないことを君は知っているから。
 嫌だ、嫌だ、嫌だ。
 オレのために左腕を落とした愛しい人。その人の傷もまだ癒えないうちに、今度は右腕を傷つけて生き血をすする。君ばかりに怪我を負わせて、浅ましい獣のように、その血を味わう。
 こんなこと馬鹿げている。
 嫌だ、嫌だ、嫌だ。

 −−とすん。

 必死で顔を背けようとするオレの頭に、軽い衝撃と共に温かい重みが加わった。黒様がオレの髪に顔をうずめたのだと気付くのに少々時間がかかった。
 続けて頭上から降る、静かで切ない、オレの大好きな声。
「……お前には、悪いと思っている。あと少し……あの小僧を見つけ出すまで、我慢してくれ」
 その言葉に、不覚にもふわりと目頭が熱くなって、視界がぼやけた。オレはぎゅうっと目を閉じて、大きくひとつ、溜息なのか深呼吸なのか分からない息をつく。それからゆっくりと目を開け、黒様の腕に口をつけた。
 初めは、軽く。明らかに切りすぎているキズを舌でなぞるように。そこから徐々に、自分の渇きを満たすように、深く、深く。オレは次第に、その行為に没頭していった。


 どのくらい時間がたっただろう。オレは、一心に黒様の腕に舌を這わせつつ、ふと彼の様子が先ほどと違うことに気付いた。
 外はパラパラと雨が降り始めていて、黒様はオレに右腕を投げ出したまま、ぼんやりとその景色を見遣っている……とばかり思っていた。
 が、何かが変だ。オレは血を舐めながら、彼の様子を窺った。
 彼は背後の壁に背中をもたせかけていたが、外の景色など見ていない。むしろ空ろな目で必死に何かに耐えているようだった。わずかに早い呼吸、うっすらと上気した頬、時折僅かに寄せられる眉。なんというか……これは、あまりに扇情的で……。こんな黒様を見せられたら、オレの理性のほうがどうにかなりそうだ。 

(そうか……吸血行為でそういう気分になるのはオレだけじゃないんだな)

 そう思うと、イタズラ心に火がついた。
 オレの食欲が満たされて、君の情欲が満たされるなら、これはフィフティフィフティとは言えないか。
 かなり無理があるが、そう思い込むことで幾分心が晴れた。
 オレはちらりと黒様を見上げて、自分の口の端についた血を舌で舐めながら、できるだけ魅惑的な声でこう持ちかける。
「ねえ、黒様。オレやっぱり首筋からがいいな」
 君は僅かに熱のこもった瞳を隠すように、目を細めてこちらを見下ろす。
「面白え。オレに自分の首筋に刃物を当てろって言うのか」
 動じないふりで、ふんと鼻を鳴らす君。
 そんな顔したって無駄だよ。オレはさっきの君の表情、見てしまったのだから。
 無理して平静を装う君が愛しくて、オレは片膝をついて君の肩に手をかける。
「刃物なんて、要らない」
 そう言うと、君は少しきょとんとした顔をした。オレは笑顔で続ける。
「オレがやるから、いい」
「うわっ、てめ……ちょっ……」
 そうして、めずらしく驚き焦った顔をした君を、ゆっくりと体重をかけて布団の上に押し倒しながら、オレは君の首筋に顔を埋めた。

 (この行為で満たされる君の欲望はひとつ。そしてオレの欲望は……ふたつか。
やっぱりフィフティフィフティなんかじゃなかったな)

 そんなことを思いながら、柔らかい雨の音に包まれた部屋で、優しく君の肌に歯を立ててクスクスと笑った。

−了−