さあっと降りしきる雨の中に、ふわりとただよう甘い花のような香り。一際深く吸い込んでしまい、頭の芯が締め付けられるような不快感に襲われる。反射的に黒鋼は眉間の皺を深くした。一体これは……。
 ふと見れば一層激しさを増す雨は窓の縁を濡らし、室内に雫をしたたらせている。黒鋼はため息を落として窓を閉め、なおもその場を立ち去ることなく、ガラスの向こうの雨を眺めていた。


- wild flower -

 この国についてすぐ、旅の同行人であるところの青い目の魔術師が姿を消した。「すぐに戻るよ」そう言って自分から消えたのだから、心配するには及ばないのかもしれない。モコナによるとこの国に羽根はないのだが、体調のすぐれないサクラと姿を消した魔術師のために、忍者と少年はこの国で貸し家を見つけ、しばらく休暇をとることに決めた。

「なかなか止まないですね、雨」
 窓ガラスの向こうの水滴をぼんやりと眺めている黒鋼に、小狼が声をかける。ここ三日、太陽は一向に姿を見せていない。小狼たちも、休暇をとっているというよりはむしろ、水の中に閉じ込められているような気分だった。
「そうだな」
 ぽつりと答えて、黒鋼はゆっくり小狼を振り返る。電気をつけていないので薄暗い部屋でこちらをじっと見つめる小狼は、少し不安気な顔をしていた。降り続く雨、微熱のひかないサクラ、そして行方知れずのファイ。なるほど、不安の種には事欠かないな。黒鋼は小さく心中で息を吐いた。
「姫の具合はどうだ」
 静かな低い声が、かすかな雨音に吸収されていく。
「だいぶ落ち着いています。今はよく寝ています」
 サクラのことを話す小狼の声は、とても優しい。
「そうか」
 また窓の外に視線をやろうとする黒鋼を、小狼が呼び止める。
「あっ、あの……」
「なんだ」
「あの、黒鋼さんも休んでください。オレ、ちゃんと……」
 その言葉を遮るように、黒鋼は、ぽん、と小狼の頭に手を乗せた。
「つまんねえこと気にしねえで、姫のそばにいてやれ」
「……はい」
 項垂れる小狼の横を通り過ぎて、黒鋼はそのまま部屋を出た。
 はあ……。遠ざかるその広い背中を見つめて、少年はため息をつく。
(黒鋼さんがこの国に着いてから全然寝てないの、知ってるのに……)

 この国に着いて最初の日、水を飲みにキッチンに足を運んだ小狼は、暗い居間にたたずむ影にギクリとした。
 嫌な気配ではない。むしろ穏やかで寂しい空気。小狼にはそれが黒鋼だとすぐに分かった。こんな時間に一体何を……。音を立てないようにコップを戻し、居間を覗いた。
 静かな雨音。月のない夜だったが、街灯がブラインドの隙間から薄く夜の居間を照らし、小狼には、窓の外を眺めながらアルコールのグラスを傾ける黒鋼の横顔がはっきりと見て取れた。いつもの自信に満ちた顔とは違う、寂しくて、優しくて、ひどく苦しそうな顔。端正な顔に一層深く刻まれた眉間の皺。伏目がちになった目元に落ちる睫の暗い影。こんな顔の黒鋼さん……見たことない。悲しくて息が詰まりそうになった。
「……眠れないのか」
 突如かけられた声に、はっとわれに返る。黒鋼はこちらを振り返ることなく、窓の外の雨に視線を注いだまま、低い声で淡々と続ける。
「明日、晴れたら剣の稽古つけてやる。しっかり寝とけよ」
「はっ……はい。すみませんっ」
 小狼は慌てて自分の部屋に戻った。見てはいけないものを見てしまったような気がして、心臓がバクバクいった。それ以降小狼が夜中に水を飲みに行くことはなかったが、黒鋼がずっと寝ていないことにだけは気づいていた。一晩中眠れずにああやって起きているのだ、きっと。あんな暗い表情で。あの時と同じように。
 雨は翌日も、そのまた翌日も、やむことはなかった。

 部屋を出た黒鋼は、先ほどの小狼との会話を思い出して深く息をついた。
(寝付けない俺を心配しているのは分かっていたが、それが小僧の負担になるなら、毎晩寝たふりでもするしかないか……。まったく面倒なことだ)
 小狼との話を打ち切るために部屋を出たものの、特にすることのない黒鋼は、財布を掴んでポケットにねじ込んだ。この雨でろくに買い物に行っていなかったため、冷蔵庫がすっからかんだ。姫にも何か元気の出るものでも食べさせたい。
 あのへらへらした魔術師は、一体どこに消えやがったんだまったく。この数日、小狼と交替でキッチンに立ってみたが、ろくな料理も作れず、モコナに散々からかわれていた。
 玄関の戸を開けて、空を見上げる。灰色の雲の間から絶え間なく落ちてくる雨粒。生暖かく頬をなでる風。頭の芯をギリギリと締め付ける、甘い花の香り。知らず、眉間に力が入る。傘を広げ、黒鋼はそのまま食料品店へと足を向けた。

 道中、黒鋼は考える。
 大体どうして小狼やサクラはこの香りに頭が痛くならないのだろう。一度だけ小狼にこの香りのことを聞いたことがあったが、いい香りですね、の一言で片付けられてしまった。黒鋼が「そうか?」と嫌そうな顔をすると、サクラに「黒鋼さんは甘いものだけじゃなくて、甘い香りも苦手なんですね」と笑われた。そういうことか、と微妙に納得するも、これまで甘い菓子で頭痛に悩まされたことはない。いずれにせよ、どうやら小狼やサクラにとって、この香りは好ましいもののようだった。
 それにこの香り……黒鋼にとって、単に気に入らないというだけではなかった。
 ふと、あることに思い当たり、黒鋼は足を止めた。黒鋼の目がすうっと細くなる。思い出したくはなかった。この香り、初めてではないと、最初から気づいてはいたのだ。嗅ぐだけで憂鬱になるこの香り。闇に目を閉じることさえ許してくれないこの香り。知っている。ただ、いつ出会った香りだったかを思い出せずにいただけ。でも今、思い出した。これは……。

 子供の時分、母が俺の名を呼んで倒れたときから、父の千切れた腕が空から降ってきたときから、知世に出会うまでずっと、確かに嗅ぎ続けていた香りだった。魂を鬼に喰われかけていた俺は、血のにおいに混じってかすかに空気にこもる、この甘い花のような香りの中で、ひどい頭痛に襲われながら震えていたのだ。

 なんてこった……。気づいた瞬間、目の前がぐらりと揺れた。急に甘い花の香りが濃くなり、体内に一気に流れ込んできたみたいだった。体が言うことをきかない……血の気が引いて、まともに立っていられなかった。そういえば、頭の痛みはもはや尋常でない。あの家で、小狼やサクラやモコナといたときは、確かにこれほどひどくなかったのに……。表に出て香りに直接触れたのがよくなかったのだろうか。
 ひどい雨のせいで通りにはほとんど人影がなかったが、むしろよかったかもしれない。大の男がこんなにふらふらと通りの真ん中を歩いていたら、おかしなやつだと思われるだろう。とりあえず近くの公園へ、と思うが、足がもつれて上手く動けなかった。傘が車道に転がった。電柱の脇に、崩れ落ちるように座り込んだ。なんだか、とてつもなく寂しかった。こんなに寂しいのは本当に、両親が殺されて以来だと思った。俺らしくもない。ちっ……一体なんなんだ、これは……。甘い、甘い、花の香りに押しつぶされてしまいそうだった。
 ハァ……ハァ……。息があがって、咳き込めば喉の奥がひゅうと音を立てる。物理的にも、精神的にもずぶ濡れの状態だった。黒鋼はシャツの襟元を緩め、電柱に背をあずけて天を仰ぐ。ぼうっとした頭に、ふと、こんなときにどこかをほっつき歩いているあの、へらへらした魔術師の顔が浮かんだ。そういえば、本当にどこに行ったのだろう。もう、ずいぶん長いこと会ってないような気がした。目を閉じると、冷たい雨粒が、次から次へと顔に当たって気持ちよかった。

「あれーどしたの、黒りん。何してるの、こんなとこで」
 突然声がした。薄く目を開けると、雨に霞む視界の中、本当にへらへらした顔が目の前に傘を差しかけた、ような気がした。懸命に目を凝らすが、自分を覗き込んでいる魔術師が二重にも三重にも見え、その後ろに立ち並ぶ店々の看板が色とりどりにぐるぐると光を反射し、ひどい眩暈で何が何だかよく分からない。これは現実か幻か……。
 白くて長い指が近づいてきて、水滴を滴らせる黒鋼の前髪を優しくかきあげる。不覚にも泣いてしまいそうだ、と思った瞬間、強い力で引き寄せられて、深く深く抱きしめられた。ごめんねー黒様、遅くなって。驚いたが身動きがとれない。同時に急激な睡魔に襲われ、徐々に薄れていく意識のどこかで、楽しそうな魔術師の声を聞く。
「黒りんの頭痛はねえ、こうすれば治っちゃうんだよ。ほら……大丈夫、俺はここにいる」
 ファイは黒鋼を抱きしめた手にぎゅっと力をこめた。
 ……お前……なんで……。黒鋼は浅い呼吸でそうつぶやいたが、声にはならなかった。次第に呼吸が楽になり、気づけば悪寒はすっかり消えていた。ただひどく安心して、そのまま魔術師の腕の中で眠りに落ちた。

 その日の午後、昏々と眠り続ける黒鋼のベッドサイドで、モコナを膝に、ファイは大いにご機嫌だった。
「まさか、黒様がねえ……」
 まだ乾ききらない黒鋼の髪を愛しそうに撫でては、締まりのない顔でにやにやと思い出し笑いを繰り返す。
 街なかで眠り込んでしまった大男をここまで担いで帰るのは線の細いファイにはかなりの重労働だったが、ファイは今、それにも勝る大きな幸せにひたっていた。小狼とサクラは、恐る恐る遠くからその様子を窺う。
「あ……あのう」
「どうしたの、小狼くん」
 小狼は意を決したように顔を上げる。
「一体何があったんでしょうか……」
 小狼の問いかけに、ファイはにっこり笑って、ああ、と頷いた。
「この香り、分かる?」
「香りなんて何も……ああ、そういえばかすかに、この国についてから甘い花の香りが。もう鼻が慣れちゃいましたけど」
 不思議そうに首をかしげる小狼とサクラ。ファイは椅子に座りなおして、小狼とサクラをまっすぐに見た。
「そう。この花の香り、実は魔法なんだ」
 魔法? と二人は声をそろえて聞き返す。
「そうだよ。といっても、ごく軽い魔法。俺のいた国では、使用禁止になる前は、魔法を覚えたての女の子たちがおまじないとして使ったりしていた。俺にはこの程度の魔法、効かないけど……」
 いまいち話がつかめないという顔の小狼。サクラはじれったそうに「一体何の魔法なんですか?」とファイに詰め寄った。
「ええとね、大切な人と幸せに暮らすための栄養剤みたいな魔法。でも下等魔法だから幸せが順調に続いているときは効き目があるんだけど、何かで大きく幸せが崩れたり、大切な人と離れちゃったりすると、時折副作用が出ちゃうんだ。軽い頭痛とか……」
 へえ、と言いながらも二人にはまだよく事情が飲み込めない。ファイは笑いながら続けた。
「実は、この国についてすぐ香りに気付いた。この魔法は、俺のいた国ではもう、副作用のせいで使用禁止になっているんだ。香りの魔法は、かけた当事者だけでなく、同じ香りを嗅いだ第三者をも巻き込んだりするし」
 そこでファイは一度言葉を切り、にやりと続けた。
「たとえば黒様みたいに、ね」
「あ……」サクラはようやく意味が分かったというように声を上げた。
「黒様は当然自分でこんな魔法をかけたりしない。この香りを嗅ぎ続けた黒様は、俺がいなくなったせいで、つまり大切な人と離れたせいで副作用を受けちゃったんだ」
 ファイは自慢げに、わざと「大切な人」というところで声を大きくする。「う……」今度は小狼が苦笑を浮かべて凍りついた。
「まあ普通、魔法に免疫がなくたって、こんなに激しく術に落ちることはないよ。きっと黒様は、過去にどこかでこの香りに出会ってるんだろうね……。副作用だけを説明するなら、大切な人がいなくなると頭痛に襲われる、そういう魔法さ」
 知らず、声のトーンが落ちた。黒様は、きっと何かのトラウマで術にかかりやすくなってたんだ。あんなにぼろぼろになるなんて、一体どれほどひどい……。電柱の影に崩れ落ちているずぶ濡れの黒鋼を見つけたとき、本当は心臓が止まるかと思った。初めて見る黒鋼の表情に、ファイの心は締め付けられるようだった。
「ところでファイさん、今までどこに行ってたんですか?」サクラが問う。
「俺は今まで、この香りの元になっているだろう、呪文をかけられた花を探しに行ってたんだ。この街の人は魔法を使わない。だからきっと昔ここを訪れた魔術師かなんかが、いたずらでかけたんだろう。誰かが巻き込まれる前に、俺の魔法でこんな副作用を持つその花を摘んでしまうつもりだった。でも街を歩いているうちに、ここではこの花が良い意味で迷信になっていることが分かったんだ」
「いい意味……?」
 ファイはこくりと頷く。
「そう。生涯の相手と決めた人は、一生大事にしなければならない、ってね。この魔法がかかっていると、相手と離れさえしなければ、甘い花の香りのもとで、ある程度の幸せが保障されるんだ。だから、この街のひとたちは天罰がくだらないよう、一生相手を大事にする。それを知って、花を摘むのをやめたんだよ」
 突然モコナが、ファイの膝の上でぴょーんと飛び跳ねた。
「だから、この国に来てから小狼とサクラ、ラブラブなの〜。好きな人が近くにいるから、この花の香りのおかげで、もっともっと幸せなの〜!」
 小狼とサクラは思わず真っ赤になって俯いた。
 ファイはそんな二人をよそに、うっとりと続ける。
「それにしても、まさか黒様、こんな術にかかっちゃうほど俺の不在が寂しかったなんて〜。もしやと思って抱きしめてみたら、本当に安心しきった顔をするんだもの。体調も治ったみたいだし……。ああ……黒様……俺、愛情を感じるよう」
 身もだえするファイの横で、ベッドの上の掛け布団が小刻みに震え、数秒後に刀を掴んだ黒鋼が跳び起きた。眉間には深い深い皺が刻まれている。
「てめえ、さっきから聞いてれば好き放題ぬかしやがって!」
「あっ、起きた。だって本当じゃない、黒様、俺が好きだって……」
「言ってねえ!」
「でも俺が抱きしめたら、体が反応……」
「変な言い方すんじゃねえ!」
 跳びかかられそうになって、ファイはひょいと身をかわす。照れ隠しに大声を出して喚いている黒鋼を見ながら、やはりファイは幸せを感じずにはいられなかった。
「俺の留守が寂しくてしょうがなかったくせに〜」
「まだ言うかあっ」
 追いかけられて飛び出した庭先から、雨上がりの空にうっすらと虹がかかっているのが見えた。
 

 愛しい人。そんなに怖がらないで。寂しくなんかさせない。
 だってこの魔法は、大切な人がそばにいれば、大丈夫なんだ。
 あの時、抱きとめた君の体温と、降りしきる雨と甘い花の香りに誓った。
 俺はもう、この手を離さない。

−了−