これまでずっと信じてきたものが、背負ってきたものが、音を立てて崩れていく。オレにかけられていた呪い。気付けなかった王の真意。休ませてあげることのできずにいたもう一人の自分。全部、全部、終わってしまう。
泣きすぎて頭の芯が痛かった。何がなんだか分からなくなっていた。
もう、どうでもいいんだ。大切な人たちさえココを脱出してくれれば。今、オレ以外の旅の仲間は全て、この球体の外にいる。何も心配は要らない。セレスに飲み込まれて死ぬなんていうのは、自分にとってはこれ以上ないほどお似合いの最期だと思った。
それに。
一番最後にこの片目に映るのが、オレを守るため必死な君の姿だなんて。これはきっと、あまりに不幸なオレの物語に、神様が同情してくれたラストプレゼントだ。
黒鋼、頼むからそんな顔しないでくれ。これまで押し隠してきた感情を、せめて君に伝えておけばよかったなんて、思ってしまうじゃないか。この長い生の中で、初めて「生きていて楽しい」なんていう感情を教えてくれた君に。
オレの体は、どんなに君が力をいれて引いても、びくともしなかった。当たり前だ。これは魔力なんだ。力なんかでどうにかなるもんか。早くあきらめて逃げてくれ。
厚いコートの上から、君の左手がオレの腕をぎゅうっと握り締めて引っ張る。その手のひらの熱が、服をとおしてオレの体に伝わってくる。この手に、オレは何度助けられただろう。何度救われただろう。
ぼんやりと、透明に波打つ球体の外に眼を遣る。そういえば、焦っている君の顔なんて、滅多にお目にかかれないよな。かわいい……なんて人ごとのように考えてしまうオレは、既に生を捨てているのだろうか。
だからオレは、力を振り絞って声を出す。
「行け!」
なんだか、しがみついてくる子犬を追い払っているような気分になる。傷だらけの子犬。必死な子犬。どれだけ痛めつけられても、そのたびに起き上がって戦い続ける、勇敢な子犬。でも、もう、オレについてきちゃだめだ。今度ばかりは、ついてきたら確実に死んでしまう。
オレの気迫におされたのか、一瞬君の手が止まった。それからゆっくりと、オレの腕から離れていく。
……よかった、これでみんなここを離れられる。
ありがとう。……そして、さよなら、黒鋼。
――シャッ……
次の瞬間、オレの目に映った光景は、まったく自分の理解の範囲を超えていた。
必死の形相のまま、迷うことなく蒼氷の刃を自分の左肩にかける君。そのまま一気に刀を振り抜いた。
飛び散る赤黒い血の雨。オレの隣にゴトリと落ちてくる君の左腕。それに続く蒼氷。
呆然とするオレの前に君の右腕がスッと伸びてきて、そのまま力強くオレの胸倉を掴みあげた。
ぐにゃりという感触と共に、オレの体は嘘みたいにあっさりと、セレスの球体を通り抜けた。そのまま中空に放り出されて、放心状態でたった今抜け出た球体を見つめる。つい先程まで、王と、もう一人のオレが眠っていたその王国は、オレが抜けたことで勢いをつけたようにぐんぐんと萎んでいく。
一体何が、起きたんだ……。あまりのことに、思考が働かない。気付けば、一度止まったと思った涙が、再びオレの頬をつたっていくのが分かった。
不意に、背後からオレを抱えていた強い力がふっと緩んで、君の上体が大きく揺らいだ気がした。嫌な予感にはっとして振り返ろうとした途端、モコナの広げたマントに飲み込まれた。
――次元移動か……。
慌てて、君が次元の狭間ではぐれてしまわないよう、ぎゅっと腕を掴んだ。きっとひどい熱があるのだろう、火傷しそうに熱い右腕を。
自分の思考を上手くまとめることができない。もう、たくさんだ。ついに、君にまで及んでしまった皺寄せ。こんな展開、望んじゃいなかった。
モコナの魔法で霞んでいく視界の縁で、オレのコートと、倒れ伏す王と、蒼氷と、君の左腕を飲み込んで収縮したセレスが、最期の光を発して消えようとするのが見えた。
空に開いた穴から、ふわりと地面に着地した。
夕闇に包まれた穏やかな景色。オレの大好きな赤い眼と同じ、燃えるような空。さわさわと草の揺れる平原。
カラスが数羽、黒い影になって森のほうに飛んでいくのが見えた。緩い風が優しく頬を撫でる。遠くには、雄大な山々を背景に、セレスとはだいぶ異なる形状の城らしき建物がそびえていた。
……日本国だ。そう、直感した。
腕の中の彼を見た。意識を失ったまま、浅い呼吸を繰り返し、眉間には深い皺が刻まれている。腹も、肩も、出血がひどい。顔色は青を通り越して、真っ白だった。このまま君が息をすることをやめてしまうのではないかと思うと、恐くて足が震えた。
せっかく君の切望していた帰国が叶ったというのに、こんな皮肉な状況もないだろう。力をこめて、君を抱きしめる。今にも叫び出したい気分だった。
左腕のない君は、ひどく弱々しく見えた。オレは自分の服の裾を破いて、黒鋼の肩にかけてやった。
「くっ……」
悔しくて唇を噛むと、思わず嗚咽が漏れた。畜生、畜生……。
サクラちゃんを抱えた小狼くんが、心配してオレの傍らに駆けてくる。オレの隣まで来ると、悲しげに黒鋼に視線を落とした。出血の止まらない肩に手を伸ばしかけて、思い直してゆっくりとその手を引っ込める。それから目を伏せて、静かに呟いた。
「黒鋼さん……」
小狼くんもきっと、ここが本当の日本国だと気付いているのだ。
「……早く、どこかで手当てしないと……」
やっとの思いで、オレはそう声にした。その声は、少し震えていたかもしれない。小狼くんも頷いてあたりを見回す。
実際、手当てなんて今更もう遅いかもしれなかった。腹に大きな傷を負って、その上左腕を落としている。こんな出血で次元を移動しているのだ。
それでも、オレも小狼くんも、救いがあるのならば必死でどんな藁でも掴もうとしていた。誰でもいいから、彼を、黒鋼を、助けてくれ……。
そのとき、遠くの城のほうから、数人の影が近づいてくるのが見えた。
「あっ」
小狼くんもすぐに気付いてそちらに顔を向けた。オレはその影をじっと見つめる。それから、理解した。
中心にいる女性、あれは知世ちゃん、いや、彼の主人である知世姫だ……。
――もう、大丈夫だ。そう思った瞬間、オレは張り詰めていた糸が切れるようにふうっと意識を失い、黒鋼を強く腕に抱いたまま、その場に崩れ落ちた。
(後編に続く)